わが母校の大先輩、長義和選手。
なぜか最近、「長義和」という検索を行ってこのブログを訪れる方が居られますので、ちょっと詳しく書きたいと思います。
まず、あまりにも有名なハナシは、高校2年生の時に出場した全日本選手権でイキナリ優勝。16歳で全日本チャンピオンとなった。
種目はスプリントレース。(当時はスクラッチレースと呼ばれていた)
ただこの時本来は、4000m個人追抜きと1000m独走にエントリーしていたが、エントリーミスでなぜかスプリントレースに出場するコトとなった。
バンクの上をゆっくり走るのは怖いので、スベテ先行逃げ切り・・・であれよあれよと勝ち進み、結果的に優勝を果たした・・・らしい。
ちなみに当初は、短距離よりは中長距離の方を得意とされており、同じ年のインターハイには個人ロードレースに出場して2位に入っている。
これは、高校時代の先輩であり当時尊敬していた、戎井弘元選手の影響が大きかったと思われる。(「わが麗しきウインブルドン」より抜粋)
高校を卒業後は法政大学に進まれた。
そして、法政大学中退→杉野→シマノと所属が変わる。
その間に、ミュンヘンオリンピックとモントリオールオリンピックの2回、オリンピックの日本代表に選出された。
特に、モントリオールオリンピックでは日本の自転車競技史上初となる6位入賞を果たされた。
これは、当時の日本とヨーロッパのレヴェル差やアマチュア選手の強さを考えると、マサに「快挙!」と呼ぶにふさわしい結果である。
(実際、当時はトラック競技に限っては、プロ選手よりもアマチュア選手の方が強かった)
当然、全盛時代には国内で互角に戦える相手がおらず、ヨーロッパのグランプリレースを転戦していた。
ココでもデンマークで開催された「アーハス・グランプリ」で、日本人としては初となる国際グランプリレース優勝を果たす。
国内の試合では、国体5連覇・・・など書き始めたらかなりの量になってしまう・・・。(^-^;
そして3度目のオリンピック(モスクワ)出場を狙った昭和55年の全日本選手権で、1000m独走では大会新記録を更新して優勝したが、カンジンのスプリント種目では敗退して4位に終わる。
ただし、このモスクワオリンピックはソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、米国がボイコット。日本もそれに倣い、オリンピック出場をボイコットした。
当時マスコミは、マラソンの瀬古利彦選手・柔道の山下泰裕選手と並んで「悲運3人男」と呼んだ。
しかし正直、瀬古利彦選手と山下泰裕選手は出場したら恐らく、かなり大会確率で優勝した(悪くともメダル)と思われるが、長義和選手の場合は・・・カナリ厳しかったのではなかろうか・・・。
結果的に、モスクワオリンピックの代表を辞退し、長義和選手はこの年で引退された。
さてよく言われるハナシであるが、果たして長義和選手と中野浩一選手はドッチが強かったのか・・・というコト。
中野浩一選手が初めて世界選手権の代表に選ばれた年(結果は4位)、代表合宿で長義和選手と何度か対戦したが、「手も足も出なかった」らしい・・・。
ただ、その後中野浩一選手が全盛期を迎えた時、具体的に言うと世界選手権で5連覇の時ぐらい・・・だったら、中野浩一選手の方が強かった・・・と思う。あくまで個人的な考えですが。
そしてお互いが、全盛の時期に対戦したら・・・、テクニックの長義和選手対パワーの中野浩一選手となるが・・・、中野浩一選手に軍配が上がるのでは・・・と思う。
しかし、直接対決ではそうなるかも知れないが、ある国際大会に二人が出場したら中野浩一選手が上になるかどうかは分からない。
このへんが、自転車競技のフシギなトコロ。
確か実際にそういう状況の国際大会があり、長義和選手は予選を通過したが中野浩一選手は敗退して、その後「主催者特別」のような形で本選に進んだ・・・コトがあったと思う。
最終結果は、中野浩一選手は3位で長義和選手はそれよりも下の順位だったと思う。
いずれにせよ、日本の自転車競技史上に燦然と輝く、偉大な選手であることは間違いない。
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